ある日、わたしは普段登下校をともにしている幼馴染といつも通り帰っていた。今日は何があったとか、今度の休みはどこへ行こうだとか、いつもそういった他愛のない話をして笑い合いながら歩く。
 しかしその日は彼が突然放った一言により、それまでのほのぼのとした空気がガラっと一変した。


「僕は京都へ行く」


 わたしは耳を疑った。一回では理解できなくて、頭の中で反芻させた。
 征ちゃんが京都へ行く。京都へ行く、京都へ――――。
 先程までは談笑していたが、ふいに沈黙が訪れ静かになったときに彼は突然そう口にしてわたしを凍りつかせた。
 わたしは驚きと信じられない気持ちをはらんだ目で彼を見た。
 わたしは、わたしは?置いていくの?
 征ちゃんとわたしはずっと一緒にいた。小さい頃からいつでも側にいて、いさせてくれて、他の誰よりも大切な存在になっていた。優しくて、頭が良くてわたしとは違って何でもできる征ちゃんのことがずっとずっと大好きだった。
 征ちゃんはわたしを置いていくつもりだ。今まで誰よりも側にいたのに、征ちゃんもわたしのことを大切だと思ってくれているものだとわたしは思っていたのに、置いていくんだ。わたし、もう要らないんだ。征ちゃんにとって必要のない存在になったのだと、わたしは気付いてしまった。


「…そうなんだ。遠くへ行っても頑張ってね」


 悲しい気持ちを押さえつけ、できるだけ征ちゃんに鬱陶しい重い女と思われないように、何も気にしてないふりを装って返事をした。わたしはうまく言えていただろうか。
 征ちゃんは短く、…ああ、と言った。
 その日の帰り道、わたしたちの間にそれ以降会話はなかった。


*************


 あの日の帰り道での出来事以降、征ちゃんとはどこかぎこちない関係になってしまった。
 今まで通り登下校はともにしているが、互いに核心には触れないような、踏み込めないような、一番近くにいるはずなのに心は遠くにあるような感じがした。
 わたしは学校にいても家にいても、征ちゃんが京都へ行く、そのことだけが頭から離れなかった。
 征ちゃんは強豪で有名なバスケ部に所属しており主将まで務めていて、さらにキセキの世代と呼ばれる類まれなる才能を持った人間だ。おそらくスカウトされたのだろう。高校名を聞いて、あとで調べてみたらバスケの強豪校らしいことがわかった。
 わたしはどうしたらいいのだろう。彼を追ってもいいのだろうか。でもわたしは捨てられたのかもしれない。それなのに追うなんて、征ちゃんの迷惑にしかならない。わたしは征ちゃんの負担にはなりたくはなかった。征ちゃん自らわたしを要らないと思い捨てたのなら、追うなんてしてはならない。そもそも京都の高校に行くなど、わたしの親が許さないと思われる。わたしは東京にいるしかない。
 大好きな征ちゃんと会えなくなってしまう。寂しい、悲しい、そういった感情が心の中に充満している。
 わたしは征ちゃんを引き留めるべきだろうか?寂しい、行かないで、そんなことを言ったところで征ちゃんは留まってくれるのだろうか?
 彼は一度決めたらおそらくそれを貫き通す。わたしの言葉は意味をなさないことが予想されたし、引き留めてもただの鬱陶しい女にしか思われない気がする。
 わたしは何も言うべきじゃない。何も言わないで応援して見送るべきなのだ。…だがそうは言ってもやはり寂しい。ずっと一緒にいたのに。
 家にいるときは涙が流れ落ちた。学校では、いつも以上にぼーっとしているようで、友人にも大丈夫?と聞かれる始末だ。
 わたしは、どうしたらいいのだろう。
 征ちゃんと会えなくなるまで、そう日がたくさんあるわけではない。あと少ししかこうやって毎日顔を合わせることができないのに、このまま距離が空いて、ぎこちない関係のままなのだろうか。
 それは嫌だ、と強く思った。面倒な女だと思われてもいい、わたしは彼に伝えなければならない言葉があるはずだ。



 征ちゃんが京都へ行くと言ってから、一週間以上が経ったある日の帰り道のこと。
 この前からずっと続いていた気まずい沈黙を破ってわたしは口を開いた。


「…征ちゃん、本当に京都へ行っちゃうの」
「…そうだよ」


 いつも通り感情を感じさせない声で征ちゃんは言う。
 征ちゃんは悲しくはないの。寂しくはないの。


「わたしはもう、必要ないっていうことなの」
「そういうことは言っていない」
「けど、今までずっと一緒にいたのに急に遠くへ行くって、つまりもう要らないってことなんでしょう」
「そうじゃない」


 征ちゃんが冷静に否定するが、わたしはもう止まることができず今まで溜めてきた思いが唇からこぼれ出す。


「ねえ、わたしすごく寂しい。征ちゃんと会えなくなるの、嫌だ」

「置いてかないでよ、征ちゃん…行かないで…」


 言葉とともに涙も溢れ出した。面倒な女だと思われるかもしれない。けれど行ってほしくない、ただその気持ちでわたしは話した。
 すごくわがままを言っていることが自分でもわかる。征ちゃんに迷惑をかけている。征ちゃんも呆れている。顔を見なくてもわかる。言わなきゃよかった。ずっと心に留めておいて、代わりに応援の言葉を掛けてあげればよかった。わたしは心の中で後悔した。
 しかし予想に反して、征ちゃんはどこか嬉しそうに微笑んだ。


「ああ、やっと引き留めてくれたね」
「…?」
「僕が京都へ行くと言ったら、すぐには嫌だと、寂しいと言ってくれると思っていた。けれど第一声は違った。頑張ってね、だった。だからは僕がどこへ行こうといいんだと、嬉しいんだと思っていたよ」


 征ちゃんがそんなことを考えていたなんて、予想だにしていなかった。


「…僕は京都へ行く。それは誰に何を言われようと覆らない。だけど、のことが要らなくなった、捨てようだとかそういうことじゃないんだよ。むしろ本当に大切だし、僕だって一緒にいたい。側を離れたくはない。…僕も寂しいんだよ」


 征ちゃんから寂しいなどという言葉が出るなんて、考えてもみなかった。彼は寂しいなどという理性的でない感情を抱いたりしないと思っていた。今までずっと側にいて彼のことを何でもわかっているつもりでいたが、実際のところわたしは彼のことを全然わかっていなかったのだと知る。彼もまた、ふつうの人間だったのだなと思った。


「征ちゃん……」
「また会えるよ。長期休みにはこっちに帰ってくるし、今生の別れじゃないんだ。ねえ、また会ってくれるだろう?」
「会うよ、会うに決まってるよ…!」
「それから、この際言っておく」
「え?」
のことが好きだよ」


 本当に突然だった。わたしはこの前と同様、一回では理解できなくて頭の中でリフレインさせた。
 嘘、とわたしは信じられずに征ちゃんのほうを向くと、先程から目から溢れ出ている涙をその長くてきれいな指で拭ってくれた。


「嘘じゃないよ。…ずっと言おうと思っていたんだ。でもの気持ちがわからなくて、言えなかった。…しかし京都へ行くって決まって今までのように会えなくなるってわかったら、やはり言わなければと思ったよ。…の気持ちを聞かせてほしい」

 真っ直ぐな声だった。
 征ちゃんがそんなことを思っていたなんて、とわたしはさっきから驚かされっぱなしだ。征ちゃんも、わたしのことを大切に思ってくれていた。好きだと思っていてくれた。わたしと、おんなじだった。


「わたしも、征ちゃんが大好きだよ…!大好きだから、離れたくないって思った。ずっと側にいたいって」
「ああ…同じ気持ちだったんだな…」
「好きだよ、好きなんだよ、征ちゃん」
「僕もだよ。…高校を卒業したら、こっちに戻ってくるから。だから、待っていてほしい」
「うん、待ってるよ、わたし。絶対待ってるから。約束だから」
「ああ、約束しよう」


 指切りげんまんをして、笑い合った。大人が見たら、子供のかわいい口約束だと思うのだろう。しかし、征ちゃんは一度決めたら貫き通す人だ。だからこの約束は果たされるんだろうとどこか確信めいたものをわたしは心の中で感じていた。
 今まで負の感情で満たされていた心の中が、今日のことで一瞬で喜びに変わった。
 きっとわたしはこれからも征ちゃんのことで悩んだり、悲しんだりすることがあるだろう。それでも、耐えられる。あなたが春を、約束してくれたから。


を噛んで、あと




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title:金星さまより


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